翔優館 塾長:秋間 義浩
小学校の恩師の影響から、将来の夢は「学校の先生になること」だった。
学生時代に、塾講師のアルバイトをしたことがきっかけで「自分の個性を活かせるのは、学校の先生より塾の先生なのかもしれない」と感じ、アルバイト先に直談判し入社することに。
大手学習塾では、1教室で100人以上の生徒を指導してきた実績があり、また教室長も歴任。その後「より生徒の進路や人生にも関わる塾講師でありたい」という想いから、同僚の塾講師たちとともに学習塾を創業した。2016年には、さらに自分の理想とする学習塾像、塾講師像を体現すべく、創業した学習塾からも離れ、たった一人で現在の学習塾、翔優館を横浜市港南区に設立した。
気づけば、塾講師歴30年超。累計1,000人を超える生徒たちを指導。つねに、素直な心と素敵な笑顔を心がけ、日々、生徒ひとりひとりを大切にして指導に当たっている。
こんにちは、翔優館 塾長の秋間義浩です。
当ホームページをご覧くださり、ありがとうございます。
こうして、ホームページを見つけてくださったのも何かのご縁かと思います。
可能なかぎり、生徒のみなさんの成績アップや志望校合格および将来の夢の実現にお力添えができればと思っております。
とはいえ、いきなりどこの馬の骨かもわからない人間の言うことは信用できないと思います。
そこで、少しでも私のことを信頼していただけるよう自己紹介をさせてください。
私は、教師になりたいと思っていました
私は、もともと学校の先生になりたいと思っていました。
そのきっかけとなったのが、小学校のころの恩師の存在でした。
私は、小学4〜6年ごろ小学校のマーチングバンドに所属していたんですね。
そのバンドを指導されていたのが、恩師の先生だったんです。
とても熱血的な先生で、当時、練習はめちゃめちゃ厳しかったことを思い出します。
なので、練習がキツくて辞めたいと思ったこともありましたね。
だけど、その先生に厳しいことを言われると悔しくて、ガゼンやる気になる自分がいました。
また、私自身がマーチングバンドの中で数少ない男子生徒だったこともあってか、先生に気にかけてもらっていたと感じることが何度もありました。
私は、気づいたら先生に惹かれるとともに教師の仕事に魅力を感じていました。
それで、将来は自分も教師になりたいと思うようになったんです。
こだわりの強い性格が塾講師向き!?
私自身、昔から何かを“創り出す”ことに対して、強いこだわりを持っていたと思います。
細かい作業が好きで、つい細部まで作り込んでしまうタイプでもありましたね。
それを象徴する出来事のひとつに、中学生のときの文化祭があります。
2年生のときに、クラスで映画を作ったんです。
私は、父が8ミリフィルム所有していたので、それを借りてカメラマンをしたんですね。
撮影をして、そしてそれを編集する。
どこか職人的な作業に、カッコよさを感じていました。
そして「こんな風に撮影したい」、「こんな映像に仕上げたい」と細部まで映像を作り込んだ記憶があります。
また、放送委員会で番組を作ることも楽しかったですね。
そういった姿勢が現在の仕事にも現れているのが「プリントや教材の作成」です。
細部までこだわって作り込むのは、今でも好きですね。
ちなみに、映像制作へのこだわりと細かい作業の得意さを活かして、これから塾では「動画教材」の制作にチャレンジしたいと考えています。
消極的な子どもが積極的に変化
私は、中学生くらいまでどちらかというとおとなしい性格で、クラスでもあまり目立つ存在ではありませんでした。
人前に出るのも苦手でしたし、成績表には「もっと積極的に行動しましょう」と書かれることもしばしばでした。
しかし、自分のことを振り返ってみると、高校生ぐらいからちょっとずつ変わってきたと思います。
きっかけは、高校生になって吹奏楽部に入部したことです。
小学生のときは、マーチングバンドをやっていたのですが、中学校は上下関係が厳しそうだったため吹奏楽部には入っていませんでした。
だけど、高校では吹奏楽をやってみたい気持ちがあり、入部するかどうか迷っていたんです。
そんなときに、先輩に誘われたことがきっかけで吹奏楽部に入部することにしました。
吹奏楽部では、先輩に大変よくしてもらい、たくさん遊んでもらいましたね。
ちなみに、私は昔から先輩など目上の方にかわいがってもらえるタイプの人間でした。
ただ、先輩にたくさん遊んでもらった結果、勉強しなくなりました(苦笑)。
ですが、先輩や仲間たちと過ごした時間から、私は人生の楽しさを見出し、自分自身が変わっていく実感がありました。
実際に、消極的だった性格がだんだんと積極的に変わっていったのは高校生のころでした。
はじめての塾講師
塾講師の仕事をはじめたのは、大学生のときです。
たまたま、予備校時代に知り合った友だちに「塾のアルバイトやらない?」と声をかけられたことがきっかけでした。
ちなみに、当時、大学生のアルバイトで多かったのが塾や家庭教師だったんです。
先述のとおり、私は小学生のころから学校の先生になりたいと思っていました。
なので、塾講師ではありましたが「そんな(教師のような)仕事ができるんだ!」と思うと、すごくうれしくて塾講師のアルバイトをはじめました。
アルバイト講師1年目は、勤務地が遠かったんですがとても楽しかった記憶があります。
当時は、1教室で100人くらいいるような“モンスタークラス”を教えていましたね。
2年目になると、その塾の別校舎に異動し、さらに友だちに誘われてその塾とは別の塾講師も掛け持ちしていました。
でも、それが大変と思わないくらい楽しかったんです。
また、アルバイト講師時代も先輩講師の方たちには大変よくしていただきました。
「スキーやらない?」と先輩に誘われたのがきっかけで、今でもスキーが趣味になりました。
今では珍しいと思いますが、当時勤務していた塾はアルバイト講師が中心となって授業を行っていました。
私たちはアルバイトでありながらも、やりがいと責任感を持って、みんなでタッグを組んで塾を盛り立てていました。
今はもう塾講師をしていない仲間もいますが、当時の講師たちとは今でも連絡を取り合う関係を保っています。
塾講師として就職
私は、2年間のアルバイト講師経験で、塾講師のおもしろさを存分に味わうことができました。
塾講師という仕事が、生徒たちにすごい影響力を与えているように思えたんですね。
また2年間で、人前で話すことや自分を表現することもできるようになり、性格も大きく変わりました。
そのような経験や変化を重ねるにつれ、もともと教師を志していた私は「自分の個性が活きるのは、塾講師のほうじゃないか?」と考えるようになりました。
自分の思ったことができる、自分のやりたい教え方ができる、学校の先生よりも自由な雰囲気でできる…。
「塾講師、悪くないな…」
そう思ったんです(なんかカッコつけてますね:笑)。
結果的に、掛け持ちではじめた塾の社長さんから誘われる形で、その塾に社員として入社しました。
ちなみに、私が就職した塾は当時はまだ地域で多少知られている程度の中小塾でした。
その塾に、私たちアルバイト講師が即戦力として入社し、アルバイト時代と変わらずタッグを組んでがんばったことで大手塾へと成長させることができました。
もちろん、時代の後押しもあったと思います。
ですが当時は、競合塾に打ち勝つべく、一気にイケイケでひたすらに塾を成長させていった記憶があります。
だけど、本当に「働いている」というよりは、仕事をしている感覚がないぐらい楽しかったです。
塾がどんどん大きくなること、生徒が増えることに楽しさや面白さを感じていましたし、遊びも仕事も両立していました。
そのような日々が、ずっとつづけばいいなと思っていました…。
迷い…
塾が大きく成長することはうれしかった一方で、居心地の悪さを感じるようになってきてしまいました。
塾が大きくなるほど「会社」としての「守り」に重きが置かれるようになっていったんです。
仕方のないことではあったのですが、小さかった塾を大きくすることに楽しさを感じていた私は、そこに違和感を感じてしまいました。
また、この時期は「合格者を増やして、そして生徒を増やすこと」が講師に課せられた至情命題でした。
その結果、私の校舎ではありませんでしたが、自分たちのため、塾のために、生徒の意志とは関係なくトップクラスの高校に進学させようとする事態も起こっていました。
30年近く前のこととはいえ、あってはならないことです。
「そんなことをやるために、塾に入ったわけじゃない」
そんな思いが、日増しに強くなっていきました。
そして、そう思ったのは私だけではありませんでした。
当時の仲間たちが、独立して自分の塾をつくりはじめたんです。
私自身、このころはまだ独立なんて考えてもいませんでしたから、仲間の姿をただただ「すごいな」と遠目で見ていただけでした。
ですが、やがて自分たちで塾をやる仲間たちを見て「楽しそうだな」という気持ちが私の中で募っていきました。
そのため、だんだんと今の塾をつづけることに迷いが出てきたんです。
共同経営で独立
そんなタイミングでした。
独立した仲間に、久しぶりに会って話すことになったのは。
ひととおり近況報告を終えると「一緒にやらない?」と。
仲間がやっている塾に、講師として誘われたんですね。
その塾が、新しい校舎を立ち上げようと考えていて、それを私に任せてくれることになったんです。
そうして35歳のときに、共同経営という形で4名の仲間たちで塾を経営することになりました。
ただ、いざ独立してみると難しいと感じることをたくさん経験しましたね。
改めて、大手塾の脅威を感じましたし、生徒が集まらないつらさもありました。
でも、大手塾時代に感じていた変なプレッシャーはなく、純粋に塾を楽しんでできた時期でもありました。
本当の独立へ
仲間たちとの塾は、10年間つづけました。
とてもやりがいがありましたし、楽しかった日々を過ごすことができました。
ですが、やはり高い力量を持った講師たちが4人で経営していると、個性がぶつかってうまく行かないことも実際にはありました。
「これをやりたい」と思っても、4人の総意がなければ動けないこともありました。
独立したはずなのに、思ったように動けないもどかしさ…。
自分一人であれば、思ったらすぐ動けるし責任も自分で負える。
そこで私は、仲間たちとの経営に区切りをつけ自分ひとりで塾をはじめる決意を固めました。
実のところ、仲間たちとの共同経営をはじめるときも、まわりの友人から「自分の塾作らないの?」と言われたこともありました。
ですが当時は、まだ一人で塾を経営する自信がなかったんです。
とはいえ、10年間経験を積み重ねても一人で塾を経営することへの怖さはありました。
けれど、そのときは「一人でやってみたい」という思いが勝っていたんです。
さらには当時、私が任されていた校舎の経営状態が厳しかったことも独立を後押しした要因でもありました。
思うように生徒が集まっていなかったため、教室を閉じるかどうかを仲間たちと話し合っていたんです。
そのタイミングで独立したい旨を仲間に伝えたところ、校舎は閉じることになったものの、在籍している生徒を私が引き継ぐ形で私は独立し自分の塾をはじめることになりました。
それが、現在の「翔優館」のはじまりです。
ちなみに、仲間たちとは離れ独立したものの、今でも仲よく連絡を取り合っています。
根っこにあった教師への想い、恩師への憧れ
「翔優館」という塾名にしたのは、生徒の勉強以外の面も成長させてあげたかったからです。
まず一番に「優」という字を使いたかったんですね。
でも当時、他塾の先生から「“優”を使う塾は珍しい」と言われたりもしました。
なぜなら「優」という字を使うと「優しい」イメージになりそうで、塾としての「厳しさ」に欠けてしまうと思われたからです。
けれど私は、どれだけ塾講師としての経験を積み重ねても、もともと少年時代に志していた教師への想いや恩師への憧れを持ちつづけていました。
だからこそ、いつの時代も勉強以外の面も成長させてあげたい気持ちが私の中にはずっと変わらずありました。
そのうえで、他にはないネーミングにしたいという考えから「翔優館」と名づけたんです。
実際に、勉強以外の面も成長を促す取り組みとして、翔優館をはじめて2年後くらいからは塾内で「探究学習」をはじめました。
今でこそ「探究学習(総合的な探究の時間)」は高校で必修化されていますし、小・中学校でもそれに類する授業が行われています(総合的な学習の時間)。
ですが当時は、まだ文科省が新学習指導要領(2020年より実施)で新設することを告示したばかりのタイミングでした。
また、それまでの塾から継続して、生徒の人生相談や就活相談、エントリーシートの添削などは現在も行なっています。
現代の学習塾に求められるものとは?
塾経営だけを考えるなら、私がやらなければいけないのは「圧倒的な合格や成績アップの実績」をもたらすことだと思います。
しかし、学習塾や子どもたちを取り巻く環境は時代とともに大きく変化してきています。
そしてそれによって、志望校合格や成績アップが必ずしも生徒の幸せには結びつかなくなってきている現状があります。
例えば、不登校生徒の数は年々、増加傾向にあります。
また、一生懸命勉強をがんばって学力レベルの高い志望校に合格したものの、進学後、目標を見失ったり、学校が合わずに転校してしまう生徒もいます。
そのような、個性的であるがゆえに従来の教育の価値観の枠に収まりきらない子どもたちが増えているのは事実です。
そして、そのような子どもたちを受け入れ先として不登校生が通うクラスや学校も増えつつあります。
こうした現状を踏まえますと、私は点数をガンガン上げて成績を伸ばして志望校に合格させることだけでは不十分だと考えるようになりました。
- 何のために勉強するの?
- 何のために高校・大学に進学するの?
- 社会って何?
- 世の中には、どういう仕事がある?
- 自分の個性を活かすって? etc
上記に代表されるような、子どもたちの人間的な成長も含めたサポートをしたい気持ちが私自身、年々強くなってきています。
私は、子どもたちの人間的成長、そして将来の夢の実現、そのために勉強があるべきだと考えています。
そして、学力の二極化や学級崩壊なども叫ばれるようになって久しい現代では、子どもたちの人間的成長を促す環境を“塾”も担うべきであるとも考えております。
生徒たちとは一生付き合っていきたい
「教師を志した人間が講師をしている塾」ということで、他とは一風変わった学習塾かもしれません。
それを象徴する要素のひとつに、当塾はこれまで私以外の講師たちが全員“元教え子”というのがあります。
実は、私は大手塾時代から現在までつながっている教え子たちが数多くいます。
中には、学校の先生になっている教え子もいますので情報交換もよくしていますね。
教え子たちと飲みに行くこともあります。
それは、私が昔から生徒は塾を卒業したら「講師と生徒」という関係から「人生の先輩・後輩」という関係に変わるものだと考えてきたからです。
そして、人生の先輩・後輩として“一生付き合っていくもの”だと(不思議と自然に)思ってきました。
ですので私の中では、生徒は塾を卒業すれば、そこからはお互い刺激を与え合って成長していく存在に変わります。
ちなみに(先述のとおり)、私はずっと目上の方たちにかわいがってきていただきました。
ですので私は、下の世代に“恩送り”をしたいと思って後輩たちと接しています。
塾という枠を飛び越えて、子どもたちをサポートしたい
時代や環境に恵まれたこともあり、なんだかんだ私は好きなこと、やりたいことを自由にやらせていただいて生きてくることができました。
だからこれからは、社会貢献として私がやれることはなんでもやりたいと思っています。
ですので現在は、塾で教えること以外にも私の知識・経験が活かせる環境や方法で社会貢献できる方法を日々模索し、実践しています。
例えば、喫緊の課題として「不登校生のサポートや居場所づくり」、「貧困家庭への支援」、「教育格差の是正」などに取り組んで行きたいと考えております。
最後に、お子さまのよりよい未来のために、私がお力添えできることがございましたら、ぜひお声がけください。
そして、翔優館をご活用ください。
私が、やりたいことをやらせてもらえてきたように、これからの社会を支える現代の子どもたちがやりたいことをやりたいようにできるよう、できるかぎりサポートしてまいります。
保護者のみなさまにおかれましては、どうか保護者さまだけで子育てをがんばらないでいただきたいと思います。
私にも、お子さまのサポートをさせてください。
お子さまが、自らの手で豊かな未来の実現できるよう、ともに支えていければと考えております。
以上が、自己紹介となります。
最後までお付き合いくださいまして、心より感謝申し上げます。